








たしかに、胸が痛くなるような描写もある。けれど、いま生きることに苦しみを感じている多くの人にぜひ読んでほしいんだ。きっと世界が変わって見えるから。
『夜と霧』あらすじ
持ち物、衣服、そして名前もすべて奪われ「119104」となった著者。人間扱いすらされない、おぞましい労働生活が始まる。
フランクルは極限状態の収容所の中で、自分と他の人を観察し続けた。無数の苦しみ、そして心の変容を振り返り、筆者は人間とはどのような存在であるかを見出していく。



アウシュヴィッツ収容所の体験



精神医学では、いわゆる恩赦妄想という病像が知られている。死刑を宣告された物が処刑の直前に、土壇場で自分は恩赦されるのだ、と空想しはじめるのだ。それと同じで、わたしたちも希望にしがみつき、最後の瞬間まで、事態はそんなに悪くはないだろうと信じた。見ろよ、この被収容者たちを。頬はまるまるとしているし、血色もこんなにいいじゃないか!
「第一段階 収容 アウシュヴィッツ駅」より








その先で、ひとりの軍人が人差し指でひょいひょいと被収容者たちを左右の道に振り分けていった。
夜になって、友人のゆくえがわからないともらしたフランクルに、長くいる被収容者が残酷すぎる事実を伝える。
「その人はあなたとは別の側に行かされた?」
「そうだ」
「だったらほら、あそこだ」
あそこってどこだ?手が伸びて、数百メートル離れた煙突を指さした。煙突からは数メートルの高さに不気味な炎が吹き出して、渺々(びょうびょう)とひろがるポーランドの暗い空をなめ、まっ黒な煙となって消えていく。あそこがどうしたって?
「あそこからお友だちが天に昇っていってるところだ」
露骨な答えが返ってきた。わたしはまだ事態がのみこめない。けれども時間の問題だ──「手ほどきして」もらったとたん、疑問は氷解した。「第一段階 収容 最初の選別」より








そんなわけで、わたしは煙草十二本を手に入れたのだが、これは物々交換の元手になった。十二本の煙草はなんと十二杯のスープを意味し、十二杯のスープはさしあたり二週間は餓死の危険から命を守ることを意味した。
(中略)
そのほかのすべてのふつうの被収容者が煙草をたしなむとは、褒状、つまり生命を危険にさらしてよぶんに働いた功績によって手に入れた煙草を、食料と交換することを断念し、生き延びることを断念して捨て鉢になり、人生最後の日々を思いのままに「楽しむ」ということなのだった。仲間が煙草を吸いはじめると、わたしたちは、行き詰ったな、と察した。事実、そういう人は生きつづけられなかった。
「心理学者、強制収容所を体験する」より



殴られる精神的苦痛は、わたしたちおとなの囚人だけでなく、懲罰を受けた子どもにとってすら深刻ではない。心の痛み、つまり不正や不条理への憤怒に、殴られた瞬間、人はとことん苦しむのだ。
「第二段階 収容所生活 苦痛」より




ただ、そんな地獄のような生活の中だからこそ、ほんの小さな喜びを見出したときの感動が切実なんだ。
とうてい信じられない光景だろうが、わたしたちは、アウシュヴィッツからバイエルン地方にある収容所に向かう護送車の鉄格子の隙間から、頂が今まさに夕焼けの茜色に照り映えているザルツブルクの山並みを見上げて、顔を輝かせ、うっとりとしていた。わたしたちは、現実には生に終止符を打たれた人間だったのに──あるいはだからこそ──何年ものあいだ目にできなかった美しい自然に魅了されたのだ。
(中略)
わたしたちは数分間、言葉もなく心を奪われていたが、だれかが言った。
「世界はどうしてこんなに美しいんだ!」「第二段階 収容所生活 壕の中の瞑想」より


フランクルの人間観


おおかたの被収容者の心を悩ませていたのは、収容所を生きしのぐことができるか、という問いだった。生きしのげられないのなら、この苦しみすべてには意味がない、というわけだ。しかし、わたしの心をさいなんでいたのは、これとは逆の問いだった。すなわち、わたしたちを取り巻くこのすべての苦しみや死には意味があるのか、という問いだ。もしも無意味だとしたら、収容所を生きしのぐことに意味などない。抜け出せるかどうかに意味がある生など、その意味は偶然の僥倖に左右されるわけで、そんな生はもともと生きるに値しないのだから。
「第二段階 収容所生活 精神の自由」より


自分の命に課せられた義務を問い続けたからこそ、フランクルは生き延びて実名でこの本を出した。



わたしたちは、おそらくこれまでどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。
「第二段階 収容所生活 収容所監視者の心理」より



だけど大切なのは、強い人と弱い人があらかじめいるわけじゃないってことさ。毅然として生きるか、流されて生きるか、それを決めるのも自分自身だということだとぼくは解釈している。
このへんは、心理学の巨頭フロイトやアドラーが学生時代のフランクルの先生だったことが強く影響しているよ。








