




「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」って聞いたことあるよ。読んだことはないけど、「人間はみんな平等ですよ」って本だよね?

ただ、残念ながら諭吉の思想は「人間は平等である」というものではないんだ。むしろ、社会の中で人にはれっきとした違いが存在するというものだ。


現代語訳で親しみやすく、ユーモラスに社会を一刀両断!
Amazon紹介文より


だから、より多くの人に読んでもらうために現代の日本語に合わせて書き換えたのがこの本なんだよ。
現代語訳してくれたのは、以前にも紹介した齋藤孝さんだ。


西洋のものが無条件に優れているのではなく、日本にも優れたところが多くある。それぞれのいいところをハイブリッド化させて、よりよい日本をつくろうとこの本で世間に呼び掛けたんだよ。


「学ぶか学ばないか」が人の違いを造る!
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言われている。
つまり、天が人を生み出すに当たっては、人はみな同じ権理(権利)を持ち、生まれによる身分の上下はなく、万物の霊長たる人としての体と心を働かせて、この世界のいろいろなものを利用し、衣食住の必要を満たし、自由自在に、また互いに人の邪魔をしないで、それぞれが安楽にこの世をすごしていけるようにしてくれているということだ。
しかし、この人間の世界を見渡してみると、賢い人も愚かな人もいる。貧しい人も、金持ちもいる。また、社会的地位の高い人も、低い人もいる。こうした雲泥の差と呼ぶべき違いは、どうしてできるのだろうか。
その理由は非常にはっきりしている。『実語教』という本の中に、「人は学ばなければ、智はない。智のないものは愚かな人である」と書かれている。つまり、賢い人と愚かな人の違いは、学ぶか学ばないかによってできるものなのだ。”初編 学問には目的がある”より







だけど諭吉は、「たとえ地位が違っても、どんな人にも人権がある」という意味で、人は同等の存在であると考えたんだ。
『学問のすすめ』は、社会的地位の違いはあると認めながらも、日本で初めて「基本的人権」について書いた本なんだよ。
人と人との関係は、本来同等だ。ただし、その同等というのは、現実のあり方が等しいということではなくて、権利が等しいということだ。
現実のあり方を見てみると、貧富や強弱や、知恵がある、愚かであるといった差が非常にはなはだしい。貴族だといって大きな家に住み、美食してぜいたくするものもいれば、力仕事をする労働者として、借家暮らしで今日の食べ物にも困るものもいる。勉強ができて役人となったり、商人となって天下を動かすものもいれば、知恵や判断力もなく、生涯飴や菓子を売るものもいる。強い力士もいれば、弱々しいお姫様もいる。
見た目は雲泥の差だけれども、その人が生まれつき持っている人権に関しては、まったく同等で軽重の差はない。つまり、人権というのは、ひとりひとりの命を重んじて、財産を守り、名誉を大切にするということである。
天がこの世に人を生まれさせるにあたっては、体と心の働きを与えて、この基本的人権を持つものとしたのだから、どんなことがあっても、人間がこれを侵害することはできない。大名の命も、力仕事をする者の命もその重さは同じである。豪商の百万両の金も、お菓子売りの四文の銭も、これを自分の財産として守る気持ちはいっしょである。”第2編 人間の権理とは何か”より



実際に、諭吉は慶應義塾という学び舎をつくって、子どもたちに教育を与えるために奔走し続けた。「人権」という言葉も、諭吉がはじめて日本語に翻訳したものだといわれている。




自律して学ぶことが、新時代の「自由」を切り拓く!

明治維新のときから、官にある人物たちが力を尽くさなかったわけではない。また、彼らの資質が劣っていたわけでもない。ただ、事をなすにあたって、いかんともしがたい原因があって思うようにいかなかったことが多いのだ。
その原因とは、すなわち国民の無知無学である。
政府はすでにその原因を知って、しきりに学術を振興し、法律作りを進め、新しい商売のやり方を指導している。ある場合には国民に説き、ある場合には政府自らが手本となるなど、ありとあらゆる手段を尽くしているのだが、今日に至るまで成果があがっているようには見えない。政府は依然として専制の政府、国民は依然として無気力な愚民である。”第4章 国民の気風が国を作る”より



諭吉は、それがさらなる悪循環を招いていると指摘する。
人は言うかもしれない。
「政府は、この愚民をコントロールするのに、一時的に強引なやり方をとっているだけで、後に知や徳が備わるのを待ってから、文明の領域に入らせようとしているのだ」。
この説は、理屈としてはともかく、実行は不可能である。
わが日本全国の人民は、非常に長い間、専制政治に苦しめられて、それぞれの心に思うことを表現することができなくなっている。人民は政府をごまかし、安全を手に入れ、いつわって罪を逃れようとする。ごまかしの術が人生必須の道具になり、不誠実なことが日常の習慣になっているのに、これを恥じることもなく、疑問を持つ者もいない。「わが身の恥」という感覚は、まったくなくなってしまっている。これでは国を思うなどという余裕などあるはずもない。
政府はこの悪習を改めようと、ますます権威をかさにいばり、おどし、叱りつけ、ムリヤリに人民を「誠実」にしようとしたが、かえって人民を不誠実に導くことになった。まるで火を使って火事を消そうとするようなやり方である。
その結果、政府と人民のあいだはますます離れてしまい、それぞれ独自の気風を持つようになった。その気風とは、英語でいうところの「スピリット(spirit)」であって、これをすぐに変えるということはできない。”第4章 国民の気風が国を作る”より



諭吉は、「日本には政府はあるが、いまだ国民がいない」とまで言っているんだ。


そもそも事をなすにあたっては、命令するより諭した方がよく、諭すよりも自ら実際の手本を見せる方がよい。一方、政府はといえば、ただ命令する力があるだけなのである。諭したり、手本を示したりというのは、民間でやることである。
だから、われわれが、まずしっかりと自分の立場に立ち、学術を教え、経済活動に従事し、法律を論じ、本を書き、新聞を出すなどして、国民の分を越えないことであれば、遠慮なくこれらを行い、法律をかたく守って正しく事に対処する。また、国の命令がきちんと実行されず、そのために被害をこうむったならば、自分の立場をおとしめることなくこれを論じて、政府に鋭い批判をする。古い習慣を打ち破って、国民の権利を回復させることが、いま現在、至急の要務なのだ。”第4章 国民の気風が国を作る”より





かといって、自分が苦しいのに黙って従い続けることも良しとはしない。





ルールはガマンしたり、破ったりすることでは変わらない。ぼくらの人格を高めて、よりよいルールを作るために行動を起こすのが重要なんだ。そして、学問はそのための最強の武器になるんだ。



思わず笑っちゃうくらい親しみやすい本になっているから、ぜひ読みたい章から開いてみてほしいな!
